新年あけましておめでとうございます。
釣り人の有馬です。
新たな年のスタートということで、今一度なぜ渓流ルアーフィッシングにこんなにもハマってしまったのか考えてみました。
そこに川があったから
まずは、なぜ釣りを始めたのか考えてみました。
僕が釣りを始めたのは、たしか10歳あたり。
魚を釣りたいという衝動もあったのかもしれませんが、考えてみると一番は「そこに川があったから」なのかなと。
僕が暮らす岩手県西和賀町(にしわがまち)は、特別豪雪地帯で雪はモリモリ、現在もコンビニがない地域です。
ようは、すごく田舎なんですね。
日本の田舎風景といえば、田んぼ、山、川。(個人の見解です)
消費者志向が強い人だと、まじで何も無いと感じる場所かなと。
そんな中で育ったので、自然の中で遊ぶというのが、それこそ自然。
歩いて川に行けるし、30年くらい前は、今より結構簡単に釣れた記憶があります。
最初は、餌釣りからスタートし、バスフィッシングが流行っているのをテレビで知り渓流ルアーフィッシングを始めました。
その頃は、情報があまり無く、渓流の魚をルアーで釣ることに半信半疑でしたが、スピナーを投げ込んでみるといきなりイワナのアタック。
合わせられませんでしたが、その瞬間からルアーフィッシングに目覚めました。
未だに、わりと鮮明に覚えているくらいですからね。
自然が作り出す美しさ
釣りを始めた当時は、単純にイワナが釣れてうれしいとか、そういった感情だったと思います。
おそらく学生時代は、釣れた数とかサイズとか、そのあたりに楽しさを覚えたのかなと。
しかし、視点が変わってきたのが、社会人になってからですね。
僕の場合は、関東で社会人生活をスタートしたので、数年は満員電車との格闘でした。
その間は、川というより釣り自体から遠ざかっていました。
数年後、岩手に戻ってきて本格的に釣りを再開しました。
すると、今まであまりに近くにあったので、気付けていなかったものを発見。
なんとなく、人工的に造られた物に価値があるという思いが強くなっていたところに、そこを容易く超えていった感覚。
何も無いとかではなく、ただ見えていないだけなのかも。
見えていないというか、感覚が自然に追いついていなかったというか。
渓流の風景、音、匂い。
そして、今この瞬間、ここ数百m~数kmの区間、人間は僕一人なんじゃないかという感覚。
満員電車のすし詰め状態からのここ。
僕の中での感覚がすごく動いた瞬間でした。
そういう感覚になると、視点が更に変わって、身近な美しさに気付くようになりました。
それが、四季の美しさです。
少しするとカタクリ。
今まで、目の前に広がっていた普通の景色が、突然として感動に変わる瞬間。
僕の中では、エンタメ感が変わった瞬間でしたね。
意味的におかしいんじゃないとツッコミがあるかもしれませんが、自然を眺めることは僕にとってエンタメみたいなものなので。
そして、美しいのは風景だけではなく、渓魚も美しい。
オレンジお腹のイワナ。
9月のヤマメ。
四季の変化を動画にしてみたので、時間があるときにでも。
数投勝負
あと、渓流ルアーフィッシングが自分に向いているなと思うのが、一か所で粘らない釣り上がりという概念です。
水温が低い時期だと少し粘ったりもしますが、基本はワンポイント3投程度。
夏場は、ほぼ1投勝負が多くなります。
なので、渓流ルアーフィッシングの時間配分は、釣り3に対して歩きが7といったイメージです。
釣れないと本当に渓流散歩で終わるという感じ。
だからこそ、その数投に戦略が必要になってきます。
この流れと深さなら、あそこに魚が潜んでいて、そこにルアーを投入し狙った流れを狙ったスピードで泳がせる。
頭でイメージし、それを実際に操作する繰り返し。
失敗すれば、そのポイントは終わり。
何が悪かったか。戦略か腕か。
次に行こう。
結果がすぐにわかり、自分のメンタルの変化もわかるこの感覚が僕は好きです。
で、失敗と成功を繰り返す。
まぁ、大半は失敗に終わりますが。
数時間の釣行に、ある意味では人生の縮図のような濃密さを感じることができます。
あとは、新しく行く渓流での釣り上がりに魅力を感じます。
あのカーブの先には、どんな風景があるんだろう。
あの流れにどんな魚が潜んでいるんだろう。
アドレナリンが出まくり、帰りは想像以上に疲れ果てていたりしますが。
それくらい、心を持っていかれてしまいます。
と、ここまでで渓流ルアーフィッシングを続けている理由を書いてみました。
そして、ここからが僕の中では本題です。
たぶん釣りから離れていくので、興味のない方はこのあたりで閉じた方がよいかと。
有限性
日本は、川の多い国なので広範囲で渓流釣りを楽しむことができます。
岩手県だけでも河川は結構な数。
しかし、僕の場合は、渓流シーズンをほぼ西和賀町の和賀川水系だけで過ごしています。
自宅から移動距離が少なくて済むというのもあるかもしれませんが、数年前から感じているのが自然の有限性と地域の有限性について。
地域の有限性については、このブログを作った元にもなっていたりします。
最初に書いた記事が「プロフィール」で、文章の最後のあたりでブログを始めた理由を書いています。
結局、何を言いたいのかといえば、
「いつまで、ここに住めるかわからん」
この一言になります。
先日、Twitterを眺めているとこんな記事がありました。
で、この記事を読んで、まぁ、ごもっともだなと思ったわけです。
というか以前から思っていて、ブログを書く原動力になっていたりもします。
もうね、肌で感じる衰退具合と近い将来の危機感。
まずは、日本の人口推移からいってみましょうか。
総務省のデータです。
2004年をピークにして、見事な下降。
これを見ただけでも、昭和、平成の単純な延長では歯が立たないことがわかります。
今のままで進んでいくと、そのうちピリピリモードの社会が出来上がるような気がしています。
そして、重要な要素の人口構造。
総務省統計局のデータです。
この中の人口ピラミッドでわかるように、徐々につぼ型に近付いています。
ということで、超高齢社会。
平均年齢48.6歳あたり。
国でこれですからね。
地方は、ねぇ。
人口が減っているということは、やはり財政的にもどんどんしんどくなってきています。
まぁ、正直見たくなかったですが、データを見ないことには現実が見えませんからね。
で、色々なデータがあると思いますが財政力指数というものを載せておきます。
この値が、1以下だと財政需要に対して税収が不足していて、地方交付税で補填されるようです。
西和賀町を調べてそっと閉じましたが、基本的には1以上のところは5%程度のようです。
そして、減り続ける人口に対して増加しているのが社会保障費。
社会保障費の推移はこちら。(pdfファイルです)
綺麗に上り調子です。
この間、消費税の増税についてはニュースになりますが、しれっと上がり続ける社会保険料。給料自体が上がっても、手取りの上がらない理由がここにあります。
この記事も参考になります。
では、どうすれば良いかとなると、これが難しい。
基本的には、「彼方立てれば此方が立たぬ」状態。
そして、この人口構造での民主主義。
社会保障は、手厚い方が良いとなりそうな気がします。
さて、この文章、どこに着地点をもっていくか迷走中ですが、要は、基本的にはこのままだとヤバいので小さくても一歩ずつ前に進むしかないのかなと。
文句を付けたところで、国民の一票が積み重なって、今の社会が出来ているわけなので、社会を変化させるには国民が変化していくしかないのかなと。
「彼方立てれば此方が立たぬ」系の問題でも、国民の支持を得られそうだと確信が持てれば政治家も落選を気にせず、攻めに転ずることができるのかなと。
とりあえずは、2023年もこのブログを通して西和賀町の和賀川水系を紹介していきたいと思います。
このブログを見て、和賀川水系に行ってみたという方もいたので、いくらかは貢献しているのかなと思っています。
ということで、今年もよろしくお願いします。